2023年03月11日 鴻巣駅から旧中山道を走ってきました

マーカーリスト

写真レポート


鴻巣駅

2023/03/11 09:40:56

鴻巣駅

昨年、旧中山道を日本橋から鴻巣宿まで走ったので、今回は続きを高崎まで走る予定です。
鴻巣駅東口ロータリーには大きな煙突のような筒がありました。
これは「こうのす花火大会」で実際に打ち上げに使用されている筒(四尺玉煙火筒)だそうです。
毎年、花火大会前には夜な夜な花火会場へ運びだされ、大会終了後に再び設置されているんだそうです。
現役の筒を展示しているんですね。



箕田氷川八幡神社

2023/03/11 09:56:41

箕田氷川八幡神社

鴻巣三社の神社の一社で、渡辺綱(わたなべのつな)ゆかりの社として知られています。
渡辺綱は丹波の大江山に住む酒呑童子退治や京都一條戻橋で鬼の腕を切り落とした逸話で有名な人だそうです。
箕田氷川八幡神社は1873(明治6)年に、周辺に祀られていた20余社を併合して、郷社として八幡社があった現在地に祀られたそうです。



吹上間の宿

2023/03/11 10:23:56

吹上間の宿

吹上宿は、中山道で旅人の休憩場所として利用されていた間の宿(休憩用の町場)でした。
鴻巣宿と熊谷宿間は4里6町40間(約16.4 km)と距離が長いことや、吹上から熊谷の間は荒川の土手を結ばれるなど難所だったそうです。
休憩や天候の回復を待つ旅人の需要があり、茶店や土産物屋などが軒を連ねて繁栄したそうです。
ここから歩道橋で高崎線を越えて、線路の反対側を進みます。



久下冠水橋跡

2023/03/11 11:00:06

久下冠水橋跡

荒川自転車道や側道を進んで行くと、冠水橋跡の立派な石碑がありました。
平成15何まで、久下地区と対岸の大里地区を冠水橋があったそうです。
幅2.7m、距離282.4mあり、中央には待避所があったそうです。
4種類不揃いな44本の橋脚で、ムカデに似た貴重な冠水橋だったそうです。
車一台がやっと通れる橋で、車は対岸を確かめて、阿吽の呼吸で渡っていました。



熊谷宿

2023/03/11 11:26:12

熊谷宿

熊谷宿は板橋宿に次ぐ人口が多く、中山道の中でも屈指の賑わいがあったそうです。
秩父の絹商人をはじめとした織物の店や茶屋など商業都市として発展しています。
荒川や利根川が近くを流れ、川を渡る渡船場や江戸へ物資を運ぶ役割も果たしていました。
秩父街道に繋がる交通の要所としても栄え、多くの人が行き交う宿場町として賑わいを見せていました。



深谷駅

2023/03/11 12:17:37

深谷駅

深谷駅はJR東日本高崎線の駅で、「関東の駅百選」に選ばれています。
1883(明治16)年に日本鉄道の駅として開業し、その後の国有化や線名の名称決定で高崎線の駅になりました。
1996(平成8)年に改築された現在の駅舎は、東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにしたデザインで、「ミニ東京駅」とも呼ばれています。
大正時代に竣工した東京駅丸の内口駅舎に、深谷に所在する日本煉瓦製造で作られた煉瓦が使われたことに由来しています。



渋沢栄一像

2023/03/11 12:20:32

渋沢栄一像

駅のロータリーには深谷出身である渋沢栄一の像が鎮座していました。
渋沢栄一は、明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わりました。
1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れたました。。
日本を近代国家に導くために奔走し、数々の功績から「日本資本主義の父」や「実業界の父」と称されている人です。
2024年度に発行される新10,000円札紙幣の顔にも採用されています。



深谷宿

2023/03/11 12:30:17

深谷宿

飯島印刷所脇に申し訳なさそうに本陣の案内板がありました。
飯島家は1752(宝暦2)年から1871(明治3)年ま で本陣職を務めていました。
奥の飯島家には今でも上段の間、次の間などが保存されているそうです。
深谷宿は本陣1、脇本陣4、旅籠80余の中山道の中でも最大規模の宿場で、飯盛女も多く遊郭もあり、これを目当ての客も多かったそうです。



七ツ梅酒造跡

2023/03/11 12:34:57

七ツ梅酒造跡

七ツ梅酒造は、1694(元禄7)年に近江商人の田中藤左衛門が創業した酒造です。
創業以来300年の歴史を有し、県内でも1、2を競う老舗蔵元でしたが、残念ながら2004(平成16)年に廃業しました。
現在は母屋、店蔵、煉瓦造りの精米蔵、煉瓦煙突などの建築群が遺っています。



百庚申

2023/03/11 13:01:07

百庚申

百庚申は、岡の坂下への降り口に建てられていて、国道17号の深谷バイパス線に向かって坂になっています。
百庚申が建立されたの1860年の幕末の頃だそうです。
もともと、この場所には1716(享保元)年に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていたそうです。



本庄宿

2023/03/11 13:32:37

本庄宿

武蔵国最後の宿場である本庄宿。本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒と中山道でも最大の規模の宿場でした。
利根川の水運で大きく発展し、中山道と信州姫街道の分岐点にもなっているので人の往来も盛んだったそうです。
商人の町であった本庄宿は、店の種類も多くありました。
月に6回定期市「六斎市」が開かれ、各地から買付人が集まり、商家や旅籠屋が繁盛しました。
江戸時代に作られた「豪商番付表」には、本庄宿の3人の豪商の名前を見ることができるそうです。



旧本庄警察署

2023/03/11 13:38:33

旧本庄警察署

旧本庄警察署は、1883(明治16)年に建てられた洋風建造物です。
木造二階建て、瓦葺きの漆喰塗りの大壁造りです。
ベランダにはアカンサスの葉を彫刻した柱が並び、半円窓や天井の灯火掛けのレリーフなど、随所に明治期の洋風建築の特徴が見られます。
警察署が移転した後は、本庄消防団本部、簡易警察署、区検察庁、本庄公民館、図書館として利用されました。



田村本陣の門

2023/03/11 13:40:28

田村本陣の門

旧本庄警察署の前にありました。
田村本陣は本庄宿の北本陣と呼ばれていました。
1642(寛永19)年からの記録が残されており、歴史を感じることができます。



高瀬屋跡

2023/03/11 14:22:48

高瀬屋跡

新町宿近くには江戸時代後期の俳人小林一茶が宿泊した「高瀬屋跡」がありました。
当時一茶は、たびたび江戸と信濃を往来していたそうです。
1810(文化7)7年に、一茶が川留で新町の旅籠高瀬屋五兵衛に宿泊したそうです。
その時に神流川岸に建てる石灯籠の寄進を要望され、12文(約144円)寄進したそうです。



新町宿

2023/03/11 14:26:03

新町宿

新町宿は上野国に入って最初の宿場です。
中山道開設当初は新町宿はありませんでした。
神流川野や烏川の川渡りを控えて、宿場が無いと不便であるということから、中山道が開設されてから50年経ってできた宿場だそうです。
新町宿が最も栄えたのは、文化・文政期から天保期(1804年~1844年)にかけてだそうです。
小林本陣は久保本陣や三保本陣と共に参勤交代の定宿だったそうです。



高崎伊勢崎自転車道

2023/03/11 14:37:38

高崎伊勢崎自転車道

旧中山道は関越自動車道のガードを過ぎると、烏川の河川敷にある高崎伊勢崎自転車道に沿って進みます。
車の心配をしないでいいのは有難いのですが、路面が荒れている所がありました。
現在は柳瀬橋で烏川の対岸に渡りますが、当時は渡し船を使っていました。



倉賀野宿 脇本陣

2023/03/11 15:11:24

倉賀野宿 脇本陣

倉賀野宿は中山道が整備されると例幣使街道との追分の宿場町として栄えました。
また、利根川や烏川の河岸への物資の集散地としても賑わったそうです。
本陣1、脇本陣2、旅籠64軒と当時の繁栄ぶりが偲ばれます。
本陣を探したのですが、見つけることができませんでした。
後日調べたら、交番の横にあるそうです。



あら町諏訪神社

2023/03/11 15:37:59

あら町諏訪神社

新町交差点近くの神社です。
小さな社殿ですが、造りが変わっています。
土蔵造りで瓦葺き、彫刻も漆喰でできています。
高崎宿は度重なる火災を受けた教訓として、火事に強いこのような社殿が造られたのだそうです。
今回の旧中山道自転車旅は、あら町交差点で終了です。
高崎駅から在来線でノンビリ帰ります。